毎日がアニバーサリー。

DOAUでボイチャ中に日記の話題になり,「まぁ日記なんてモノは他人から見られることを前提に書くもんだけどね」って発言をしたら,若干の不思議ちゃん扱いを受けました。こんにちは,ゆかしです。
ってコトで日記について思うところを書いてみよう。今までに僕が書いた文章と被る部分もあるけれど。




鍵をかけた抽斗の中にしまっておく様な日記はともかくとして・・・
例えばweb日記であったり,例えば小学校の頃の絵日記や学級の班日記などであったりと,大抵の人が書く日記は  ―不特定多数〜特定少数という違いはあるにせよ― 誰かに見てもらうモノであるという事があらかじめ決まっている。
つまり日記とは読者を意識して書かねばならないものという事が我々にはインプリンティングされているのだ。もちろん,書き手がその事を認識しているか否かはまた別問題だが。


web日記はネットにアップされるというその性質上,もっとも人目に晒される日記である。それは他人の目を,或いは他人との繋がりを意識せねばならないと云う事に他ならない。
他人との繋がり・・・コミュニケーション/エンターテイメント/自己主張/意見提起/アジテーションなど。営利・非営利でもそのスタンスは変わってくるだろう。
例えば「今日は出掛けて『○×』って本を買った」という一見 他愛のない様な日記であっても,その『○×』の感想・好きな人/嫌いな人などの目に触れ,コミュニケーションに発展する可能性がある。これもまた,書き手がその事を意識しているか否かは別問題なのだが。


そして常に他人の目があるからこそ,控えるべき事柄もある。
何の解決にもならない愚痴,等は その最たるものだと思う。
例えば何かしらのアクシデントが起きたとして,問題解決を図ったり アドバイスを貰ったりする為に日記に書くのはコミュニケーションだと思う。
だが単なる愚痴は,周囲に対する嫌がらせでしかない。「気にしないで良いよ」とか「君は悪くないよ」みたいな慰めを欲しいのかもしれないが,それはもうコミュニケーションとは呼べない。(と個人的には思う)
傷を舐めて欲しいのかもしれないが,それはもう毒である。毒は周囲に伝染する。


もちろん書く事によって,自らの気持ちが纏まったり,ストレスが発散されたりの効用がある。
しかしそんなモノを 公共の場であるネットにわざわざ公開する必要がない。それこそ抽斗の奥にしまう日記帳に書いたり,ハードディスクの奥深くに眠らせておくべきだ。
しかし,誰かに聞いて欲しい,慰めてほしいって気持ちもよく判る。その場合はパスワード制限などで閲覧者を特定少数にしぼるべきだと思う。
コミュニケーションを主目的にしているサイトで毒が出てしまったら,それだけで崩壊の危険に晒されかねない。この場合の崩壊とは,サイトの事でもあるし,人間関係の事でもある。




(現在の人間のもつ能力では)妄想は他人に伝わらない。
たとえ その妄想を頑張って文章にしたとしても・・・ソレは,喫茶店やファミレスで雑談する時に『今朝見た夢の話』をするのに似ている。
我々には「あ,そーなんだ。ふーん」としか,答えることができない。


僕の脳内メイドはレイファンに似てるんだよ?