それでも貴方はちぱやん空集合説をとなえるか?

DEAD OR CHIHAYA・・・そう,生きるか ちはやか。ちはやか,そうでないか。人には その2種類しか存在しえない。
ちはや以外の存在・・・それら補集合を説明するには,まずちはやの概念を定義づけることが求められる。
(まず補集合を証明し,そこから逆説的にちはやの概念を証明する事は不可能だ。何故ならば ちはやには可愛い声という要素があるが,可愛い声の持ち主がちはやである訳ではないからだ。)


概念・・・。
我々がちはやと聞いてまず思い浮かべることは,単位としてのちはやであろう。自らの固有名詞(私的)を単位の名称(公的)とする・・・工学・科学などの偉大なる天才たちの域にまで達したのだ。21世紀・新時代における新たな度量衡の成立と言っても過言ではない。


ちはやは渋谷あたりのコギャルであり,ちはやはアムラーであり,ちはやはシノラーであり,ちはやはマヨラーであり,ちはやはアメン・ラーである。神格なのだ。
これまでの文章に於いて,3人称は使わず 全て『ちはや』と呼称した。なぜなら『彼』『彼女』といった呼び方はできないからだ。神に性別など無い。ちはやはNKMの現人神なのだから



しかし注意せねばならないのは,手法としてのちはや目的としてのちはやを混在してしまいがちな事である。
少々 回りくどくなるかもしれないが,例を挙げよう。


毎週末,全国各地でちはやオンリィイベントが開催されるのは もはや見慣れた光景である。そんな中でも 夏と冬に年2回 名古屋の鶴舞公園で開催されるイベントは別格で,全開催日程を通じて延べ300万人が参加する。
なぜ鶴舞公園かといえば,その場所がちはや信仰者(チパリスト)たちの聖地になっているからだ。今から16年前,公園の北にある千早交差点の中央に ちはやは降臨したと伝えられている。交差点と聞くと身近な代物を想像してしまうかもしれないが,つぼイノリオの名曲にある様に 名古屋は道が広い(*1)。そんな遥か地平を見渡せるかのような広大な交差点の真ん中に,ちはやは降り立ったのだ。
参考/千早交差点。まるで抽象画のごとく広大。


イベント参加者たちは思い思いの方法で,その空間・時間・雰囲気を楽しむ。所謂ちはや本の頒布や購入,ちはやコスプレ,或いはちはや情報の交換など,参加者の数だけ楽しみ方もあろう。しかしそれぞれに,何が目的で何が手法であるのか問うのは,無意味である。


例えばプラモデルは『作っている間がイチバン楽しい』なんて一般論をよく耳にする。プラモデルとして完成したものよりも,作っている間の時間が楽しい・・・そんな話だ。つまり目的ではなく手法が大事。いや,この論でいくと『手法こそが実は目的だった』と言っても良い。
しかしソレは一般論でしかないのだ。やはり完成品こそが魅力,という人も居るだろう。安易に『作っている間がイチバン楽しい』と発言し,当人はカタチ(手法)に拘っていないつもりなのかもしれないが,実はそれこそが一般論というカタチ(手法)に囚われているのだ。
無責任な言い回しになってしまうが,人それぞれ,なのだ。時と場合による,と言っても良い。乱暴な比喩と承知で書くが,子供を欲しいか/セックスをしたいか,と同じだ。


ちはやもそれと同じである
まことに重要なのは,我々個人個人が どうちはやと向き合っていくか,なのである。



こんにちは,ゆかしです。

*1:『道が広いがね』でググってみると良い